top of page
IMG_20201102_224756.jpg

​金ヶ崎城​

所在地: 福井県敦賀市金ヶ崎町
標高:84m
比高:54m
城域:200m×100m

​​かねがさきじょう

​​城史

天筒山から北西の敦賀湾に向かって延びる尾根の先端に位置する。金前・鐘ヶ崎とも記され、津留賀城とも呼ばれた。
築城年及び築城者は不明だが、養和元年(1181)九月、木曽義仲を討つべく越前に下向した平通盛は金ヶ崎城に布陣したとされる。「玉葉」同年十日条に“通盛朝臣之軍兵、為加賀国人等、被追降事一定云々、仍引籠津留賀城”とあり、この津留賀城は金ヶ崎城のこととされる。
建武三年/延元元年(1336)に足利尊氏に追われた新田義貞は恒良親王・尊良親王とともに金ヶ崎城に入城した。「太平記」には、“同十三日義貞朝臣敦賀津ニ著給ヘバ、気比弥三郎大夫三百余騎ニテ御迎ニ参ジ、東宮・一宮・摠大将父子兄弟ヲ先金崎ノ城へ入奉リ自余ノ軍勢ヲバ津ノ在家ニ宿ヲ点ジテ長途ノ窮屈ヲ相助ク、爰ニ一日逗留有テ後、此勢一所ニ集リ居テハ叶ハジト大将ヲ国々ノ城ヘゾ被分ケル、大将義貞ハ東宮ニ付進セテ、金崎ノ城ニ止給フ、”と記されている。足利尊氏は高師泰を大将として、尾張高経、仁木頼章、細川頼春、村上信貞等が当城に攻めさた。攻防は翌年三月まで続き、建武四年/延元二年(1337)三月六日に落城し、義貞は脱出し、尊良親王は自害、恒良親王は蕪木浦に落ちて尊氏勢によって捕らえられた。しかし、興国四年/康永二年(1343)五月には再び南朝方が金ヶ崎城に籠った。また、正平五年/観応二年(1351)には観応の擾乱によって尊氏と不仲となった足利直義が金ヶ崎城に籠ったことが「園太暦」観応二年八月六日条に記されている。
室町時代には越前守護代の甲斐常治が居城し、文明三年(1471)、朝倉景冬が敦賀郡代となると郡代歴代の居城となった。元亀元年(1570)四月に織田信長は京を出発し、妙顕寺に布陣し、と金ヶ崎城と天筒山城を攻撃し落城した。その後同年七月十日「織田信長書状案」には、“金前城ニ朝倉中務太輔楯籠之間、翌日可攻破覚悟候処、懇望之間、加用捨追出候両城共以任存分候”とみえる。金ヶ崎の戦い後に廃城となったと伝わる。
金ヶ崎城の遺構は天筒山城と一体となっており、分離することは難しいが「太平記」の一の城戸・二の城戸と陥落していく記述から現在の一の城戸と呼ばれる竪堀から北西に向かって海までの500mの稜線上の遺構を金ヶ崎城だと考慮される。

​参考文献

下中邦彦 『福井県の地名 日本歴史地名大系18』 平凡社 1981
平井聖 『日本城郭大系11』 新人物往来社 1980

bottom of page