信貴山城
所在地:奈良県平群町信貴畑
標高:433m
比高:360m
城域:500m×660m
しぎさんじょう
城史
信貴山城は中腹の朝護孫子寺の空鉢堂のある雄岳山頂を主郭とし、北側に向かって放射状に曲輪が広がっている。大和・河内の国境に近く、南北朝時代に度々砦が築かれ、楠木正成も一時籠ったと伝わるが確証はない。また、長禄四年(1460)十月には龍田に攻め寄せた畠山義就が筒井氏に敗れ信貴山に逃れたと「経覚私要鈔」に記されている。
天文五年(1536)に木沢長政によって築城されたと「証如上人日記」等によって確認できる。天文十一年(1542)に太平寺合戦で長政が戦死すると信貴山城は焼け落ちた。「多聞院日記」天文一一年三月二七日条には“信貴城悉以焼ケ了、自ヤキ歟、由佐方打上テヤク歟、兎角ハシラス、猛火天ニ耀キ畢、上下万民ノ不能是非、是併閇門ノ故歟”と記している。以後は吉川喜蔵が在城したと伝わるが疑わしい。
永禄二年(1559)に松永久秀が入城した。久秀は多聞城と信貴山城に二城を拠点に大和国を支配した。元亀二年(1571)の辰市城の戦いで筒井順慶に敗北以後、久秀は衰退し大和支配も織田信長家臣の塙直正に奪われ、天正元年(1573)には多聞城を明け渡してからは信貴山城に常住した。
天正四年(1576)に直正が天王寺合戦で戦死すると信長は順慶に大和守護に据えた。久秀はその決定を不服として、天正五年(1577)八月十七日に天王寺砦を焼き払い信貴山城に籠城した。九月に順慶、明智光秀、細川藤孝が法隆寺に布陣し、十月一日に信貴山城支城の片岡城が落城した。同月五日に信貴山城攻めが開始され、十日に総攻撃が始まり同日に落城、松永久秀、久通親子は自害した。戦後廃城となる。
参考文献
池田末則 横田健一 『日本歴史地名大系第30巻 奈良県の地名』 平凡社 1981
角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典29 奈良県』 角川書店 1990
城郭談話会 『近畿の城郭Ⅰ』 戎光祥出版 2014