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守口城
所在地:大阪府守口市竜田通
標高:1.8m
比高:0m
城域:不明
もりぐちじょう
城史
淀川南岸、河内十七箇所の小高瀬庄にあった中世の城郭。森口城とも書く。
応永六年(1399)十一月和泉守護大内義弘が幕府に背いたとき、被官の杉正之が当城に籠城し、幕府方の今川泰範・結城満藤等の軍勢をしばらく支えたが、結局同月末には開城して堺に引き退いている(応永記)。下って文明十四年(1482)八月末、畠山政長の軍が大挙として十七箇所に打入ったとき畠山義就方の守る守口城は没落した(『長興宿禰記』同年九月二日条)。当城は十七箇所城(榎並城)の支城として置かれていたと推測される。明応二年(1493)将軍足利義材(義稙)が畠山基家討伐を企てた時も当城に布陣した(同年「河内御陣図」福智院家文書)。のちには石山本願寺の出城となっており、天正七年(1579)十二月、織田軍に降伏している(信長公記)。
所在地については旧守口町(現浜町一帯)説と旧版土居村(現平代町一帯)説があるが、いずれも遺構は確認されていない。しかし低湿地の当地一帯のなかで、平代町辺は少し高台の平地となっていること、土居は交通の要所であったみられること、延宝七年(1679)の土居村検地水帳(井上家文書)に“城尻”、“西の丸”など城跡を推測させる地字名が記載されていること、一方明和五年(1768)の守口町明細帳(守口市史)には“古城跡、旧跡(中略)無御座候”とあることなどから判断して、旧土居村説が有力と考えられる。
参考文献
直木孝次郎 『大阪府の地名Ⅱ』 平凡社 1986
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