私部城
所在地: 大阪府交野市私部
標高:27m
比高:2m
城域:300m×250m
きさべじょう
城史
私部集落の北側の段丘上に立地している。城主は安見氏とされ、一族には天文二十一年(1552)以降河内国上郡代を務め、飯盛山城を拠点に河内や南山城に勢力を振るった安見宗房がいる。
『信長公記』元亀元年(1570)十月に南方の三好三人衆に対する備えとして“高屋に畠山秋高殿、若江に三好義継、交野に安見右近丞”とあり、“交野に安見右近丞”が文献資料上の所見であるが、宗房が元亀元年以前から活動していることから私部城は元亀元年以前から安見氏の居城として機能していたと考慮される。
元亀二年(1571)五月に松永久秀は義昭方から離反した際、同調しない右近丞は奈良で謀殺し、久秀は交野へ出陣して“安見右近城”を攻めたと『多門院日記』に記している。翌元亀三年(1572)に『信長公記』 “畠山方の安見新七郎の居城交野へ対置して、松永久秀が砦を築くよう命じた。”とあり久秀は私部城を攻撃したが、佐久間信盛、柴田勝家等が来援し落城を免れている。
遺構は宅地が進んでいるが一部は残存している。縄張は4つの曲輪が東西に一直線に配して、段丘を堀切で画した“群郭式城館”として把握される。Ⅰ郭は南北100mを測る長方形で、字“天守”とよばれている。Ⅱ郭は字“城”と呼ばれ70m四方の方形郭であり、東側に宅地により破壊されているが、Ⅲ郭・Ⅳ郭が確認される。また、Ⅰ郭南西の段丘縁に東西に伸びるⅤの土塁が残り、この土塁の延長線上に光通寺があり、同寺が周囲より一段高い位置にあるため出曲輪として評価されている。
参考文献
太田牛一 坂口善保訳 『訳注 信長公記』 武蔵野書店 2018
城郭談話会 『近畿の城郭Ⅰ』 戎光祥出版 2014
中西裕樹 『大阪府中世城館辞典』 戎光祥出版 2015