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本能寺
所在地: 京都府京都市中京区本能寺
標高:36.7m
比高:0m
城域:260m×140m
ほんのうじ
城史
本能寺は、応永二十二年(1415)、日隆が油小路高辻と五条坊門の間に建立した本応寺を永享元年(1429)、内野に再建したものとされる。永享五年(1434)には、如意王丸が六角通以南、四条坊門以北、櫛笥以東、大宮以西を寄進し、移転した際に寺号を本能寺に改めている。
本能寺は、洛内法華宗21ヶ寺本山の一山として隆盛をむかえが、天文五年(1536)、天文法華の乱によって消失し、天文十六年(1547)に寺地を四条坊門西洞院付近に再建された。
本能寺は、織田信長の宿所として利用され、『信長公記』(巻13)に、天正八年(1580)二月二十六日、“本能寺へ御座を居ゑらるべきの旨にて御成りあつて御普請の様子、村井春長軒に抑え付けられる”とあり、本能寺を村井貞勝に命じ普請した記述が見られる。この記載を含め、天正八年から天正十年(1582)まで、信長は6回京に宿し、そのうち4回を本能寺、残りの2回は妙覚寺を利用している。
『信長公記』の記述から、御殿、面御堂、御厩、御台所などの施設があったとされる。また、発掘調査から、部分的に石垣をもつL字状に屈曲する幅約7m、深さ2.5mの堀が確認されている。また、村井貞勝による普請に伴って西洞院川の西半分を8m以上の幅で埋め立て、西洞院川を外堀として整備したと考えられ、内堀と外堀で囲繞されていたと考慮される。
参考文献
家崎孝治 『本能寺城跡 ―平安京左京四条二坊十五町―』 古代文化調査会 2012
吉川義彦 『本能寺跡発掘調査報告 ―平安京左京四条二坊十五町―』 古代文化調査会2008
京都府教育委員会 『京都府中世城館跡調査報告書3』 2014
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