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​物集女城

所在地:京都府向日市物集女町中条

標高:30m

比高:0m

城域:75m×75m

​もずめじょう

​​城史

 向日丘陵東麓の扇状地上、物集女街道と丹波道が交差する交通の要衝に立地する。長享元年(1487)に『神足友善等連署状』に“物集女四郎右衛門尉光重”らの名が記されており、西岡の有力土豪である物集女氏が築造主体とみられる。物集女氏は天正十五年(1546)頃から細川氏綱や三好長慶の被官として活発に活動している。元亀二年(1571)、織田信長のもと、細川藤孝が乙訓郡の知行を任され、勝龍寺城に入ると、物集女忠重は藤孝に従わなかったため、天正三年(1575)、藤孝は米田政元に命じ、勝龍寺城下で忠重を殺害し、物集女氏の本家は断絶したという。

 現在も土塁と東側の堀が良好に残り、発掘調査により堀は少なくとも三方向に巡ること、それに伴う土塁が曲輪の周囲にめぐらされていることが確認されている。東堀の幅は13m、深さは2.4mを測り、堀の斜面の角度は50度にもなる急斜面を呈する。堀の埋土からは15~16世紀の土器や中国産青磁器などが出土している。

​参考文献

京都府教育委員会 『京都府中世城館跡調査報告書3』 2014

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