勝龍寺城
所在地: 京都府長岡京市勝竜寺
標高:13m
比高:0m
城域:570m×510m
しょうりゅうじじょう
城史
『宝積寺文書』に勝龍寺城の存在が記載され、この勝龍寺を利用する形で当城が成立したと考慮される。『東寺百合文書』の記述から、康正三年(1457)には、山城国守護の郡代役所として機能したとされるが、城館が成立した時期は不明である。
応仁二年(1468)に、西軍の拠点であった勝龍寺を東軍が攻撃をしていることが『野田泰忠軍忠状』に記されている。永禄五年(1562)に西岡の土豪と三好長慶の内衆が共同で普請をおこなっている。このことから当城が西岡の中心的な城館として機能していたことが分かる。永禄九年(1566)以降、三好三人衆の一人岩成友通が在城し、西岡一帯を支配した。永禄十一年(1568)には織田信長により落城した。元亀二年(1571)には、細川藤孝が入城した。その時に改修されたことが『米田家文書』の信長朱印状に記載されている。天正八年(1580)、藤孝が丹後へ国替えになると、矢部善七郎が城主となるが、天正十年(1582)、本能寺の変以後、明智光秀の属城となる。山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れた後、廃城となる。
本丸・沼田丸を中心に総構を持つ城であり、藤孝の改修により北東にあった神足城は勝龍寺の総構に取り込まれた。発掘調査では、北門、土塁、堀を中心に石垣を用いていること、本丸内の建物に礎石立建物と掘立柱建物があること、本丸内西寄りに南北堀があること、井戸が各所に穿たれている判明した。出土遺物の中心的な時期は、16世紀第4四半期以前とされ、井戸の一つからは15世紀代の遺物が出土した。また小柄、こはぜ、責金、火縄銃の弾丸など武器・武具に伴う遺物が含まれている。石垣等の遺構の多くは藤孝改修時のものとされる。
参考文献
京都府教育委員会 『京都府中世城館跡調査報告書3』 2014