top of page
山城国赤松氏屋敷.jpg

​​赤松氏屋敷

所在地: 京都府京都市中京区槌屋町
標高:40.9m
比高:0m
城域:141m×131m

​​あかまつしやしき

​​城史

赤松氏は建久年間(1190~1199)に宇野則景が九条家の播磨国佐用庄の地頭職に任じられたことが始まりだとされ、子の家範の代で赤松氏を名乗るようになった。元弘の争乱に赤松則村(円心)は後醍醐天皇側に付いたが、『太平記』に“公家武家ノ輩、二箇国三箇国ヲ賜リケルニ、サシモノ軍忠有シ赤松入道円心ニ佐用庄一所計ヲ行ハレ、播磨ノ守護職ヲハ程ナク召返サレケリ、サレハ建武ノ乱ニ円心俄ニ心変シテ朝敵トナリシモ、此恨トソ聞ヘシ”とあり則村が一度与えられた播磨守護職を召返された。当時の赤松氏が、西播磨の佐用庄の一土豪であり、中央における発言力も微寂な小勢力であったことを示している(水野1959)。
建武の乱では足利尊氏側に付いた。建武三年/延元二年(1336)二月に尊氏が九州へ下る際し、四国および中国の国々を防衛すべき大将を定めた際、播磨は赤松と定めたと『梅松論』にみられる。また、同年十一月十六日、賀茂社領播磨室御厨の下司職并に公文職に対する室四郎朝兼の濫妨を停止するべき旨の尊氏の御教書を則村が遵行していることから、則村の播磨守護職補任は建武三年/延元二年(1336)としている。その後、正平二十一年/貞治五年(1366)の貞治の変後に備前守護職が、元中八年/明徳二年(1391)の明徳の乱後に美作守護職に任じられている。
応永三十四年(1427)九月廿一日に赤松義則が死去すると同年十月廿六日、足利義持は播磨国を赤松満祐から召し上げて、赤松持貞に預けた。満祐は不満とし播磨に下向した。義持は更に美作・備前も取り上げようとしたが、持貞が義持の侍女との密通により死を賜るに至ったことによって結局は三国の守護は満祐に安堵された。
正長元年(1428)に足利義教が将軍職を継ぐと赤松貞村を寵愛し、『看聞御記』には永享九年(1437)二月に“播州・作州可被借召之由被仰云々”と満祐所領の播磨・美作を召し上げる噂があり、永享十二年(1440)三月には、満祐の弟義雅が義教の不興を買い所領を没収され、満祐、定村、細川持賢に分与された。
嘉吉元年(1441)六月二十四日、満祐は結城合戦の勝利の賀と称して西洞院二条の屋敷に迎えて猿楽の宴を催し足利義教を殺害した(嘉吉の変)。『看聞御記』には“将軍如此犬死、古来不聞其例事也”と記されている。変後満祐は自邸に火を放ち播磨へ下向した。
城域は西洞院通・油小路間、夷川通・二条通間の141m×131mの範囲に比定される。

​参考文献

石田孝喜 『京都史跡辞典』 新人物往来社 2001
水野恭一郎 「守護赤松氏の領国支配と嘉吉の変」 『史林』 史学研究会 1959

縄張図

赤松氏屋敷.png
bottom of page