小栗栖城
所在地:京都府京都市伏見区小栗栖小坂町
標高:36m
比高:15m
城域:50m×70m
おぐりすじょう
城史
飯田氏の居城。小栗栖八幡宮南東方向に派生する尾根の先端に位置する。単郭式の城で、規模は南北50m、東西70mである。東側の切岸は不明瞭であり、南側に土塁が残る。
元弘三年(1333)に飯田家秀・俊永親子が、足利尊氏と共に上洛した際に築城した。足利義詮期に俊永と太郎は本拠である信濃飯田城に帰国したが、次男である飯田越中守永盛が小栗栖城に残った。醍醐寺の満済が応永二年(1395)に醍醐寺三宝院へ入寺する際に付き人の坊官職となり、その際に醍醐寺の法印の職を与えられ、治部卿法印永盛と名乗ることになった。以後、飯田氏は醍醐寺周辺に拠点を移したが、その後も小栗栖支配していた記載が残るため、醍醐寺坊官の「醍醐寺坊官家」と「小栗栖八幡宮家」に分かれたと考慮される。
醍醐坊官家は大永三年(1523)に南小栗栖の村人が柴市を立てようとして醍醐寺と相論になった際に小栗栖代官の飯田越中法眼承盛が取り成し役となったことから、小栗栖の代官として南小栗栖村と醍醐寺の調停に入っていたことから小栗栖支配から離れてはいないと考慮される。天正四年(1576)に義演が醍醐寺の座主となるが、飯田氏は法印や法眼といった役職からはなれていった。以後は左近と名乗るようになり、小栗栖八幡宮北の左近屋敷に移り住んだと考えられる。
小栗栖八幡宮家は享徳二年(1453)の土地売券に見られる「飯田八郎左衛門家豊」と名乗る人物が記述されており、坊官ではない飯田氏が存在していたことが分かる。また、享禄四年(1531)には小栗栖氏が勧修寺との争いにより飯田左京亮の息子である森千世丸に執行職を渡したことから、以後は小栗栖代官である醍醐坊官飯田氏の下で、小栗栖執行職である小栗栖飯田氏が小栗栖を統治したと考慮される。天文十六年(1547)には飯田源左衛門が小栗栖殿様から小栗栖姓の名字御免をゆるされたが、以後小栗栖姓がほとんど見つけられないことから、実際には飯田姓を使用していたと考慮される。
参考文献
小栗栖自治会 『京・小栗栖風土記』 2016
京都府教育委員会『京都府中世城館跡調査報告書』 2014