二条殿
所在地: 京都府京都市中京区東玉屋町
標高:42m
比高:0m
城域:280m×140m
にじょうどの
城史
平安時代中期は陽明門院禎子内親王の御所で、鎌倉時代には後鳥羽上皇の御所が設けられ、押小路殿、三条坊門烏丸殿、押小路烏丸泉殿、三条坊門泉殿、押小路烏丸御所、三条坊門殿といった名称で呼ばれていた。この御所が完成して上皇が渡御したのは承元三年(1209)のことである。以後二条家の邸宅となる。応仁の乱以前の景観を描く『中昔京師地図』には「二条殿の御所」と南に「龍躍池」が描かれている。
二条良基は姉が後醍醐天皇の女御となっていたため、初めは後醍醐天皇に近かったが、建武三年(1336)六月足利尊氏が高厳院、豊仁親王を奉じて入京し、八月には尊氏の要請により豊仁親王が二条殿で践祚して光明天皇となって以来、崇光天皇元服の加冠役、後光厳天皇元服にも加冠役を務め、良基は北朝方として活動している。そのため正平八年/文和二年(1353)六月に南朝が京都を占領し、足利義詮が後光厳天皇を奉じて美濃に下った際には家記・文書などを没収されている。足利義満期には、義満は良基の指導を受けることが多く、良基の孫である二条満基以来、足利将軍家・徳川将軍家から偏諱をうけていることから二条家は五摂家の中で親幕派だとされる。
『信長公記』(9巻)には“二条殿御構へ御普請の事”として天正四年(1576)四月朔日、“二条殿御屋敷幸空地にてこれあり、泉水・大庭の眺望、面白くおぼしめされ、普請の様子の条々、村井長門守に仰せ聞かれる”との記載があり、二条殿を接収し、「二条御新造」を造営している。天正五年(1577)七月六日に“御入楽。二条御新造へ御移徒”と宿所として利用されている。以後、天正六年(1578)三月から天正七年(1579)九月までに6回は宿所として利用している。天正七年十一月三日に信長は、“瀬田橋御茶屋に御泊り”翌日には“二条御新造の御普請請造り畢り仕るについて、禁裏様へ御進上げ”、同月五日、”吉日につきて、十一月廿二日、新御所へ親王様なさるべき相定め”と記載にあるように、誠仁親王に献上している。信長が造営した二条殿の様相は明確ではないが、ルイス・フロイスは“天下において安土についで比べるものがないほど美しく豪華”と評している。『信長公記』(巻15)には天正十年(1582)の本能寺に際し、織田信忠が妙覚寺から二条殿に移動し、籠城したが、信忠は自害、自焼したとされる。発掘調査から鎌倉時代から室町時代後期の苑池、織豊時代に属する苑池、蒸し風呂が確認されている。
参考文献
石田孝喜 『続・京都史跡辞典』 新人物往来社 2006
上村憲章 『平安京左京三条三坊十町・二条殿御池城跡』 2015
京都府教育委員会 『京都府中世城館調査報告書3』 京都府教育委員会 2014