槇島城
所在地:宇治市槇島町薗場
標高:14m
比高:0m
城域:310m×400m
まきしまじょう
城史
幕府奉公衆である槇島氏の居城。槇島氏は「後法興院記」応仁二年四月八日条に“是日平等院鎮守離宮祭也(中略)、神輿三基、次社官四人馬上、次槇長者布衣馬上、次宇治長者布衣馬上也”と記載され、槇長者が槇島氏で、槇島氏は神官の家系であると考慮される。槇島氏が幕府奉公衆に組み込まれたのは「長享元年九月十二日常徳院御動座當時在陣衆着到」に“雍州真木嶋六郎藤原光通”の名前があるため、長享元年頃に奉公衆に加わったと考慮される。
槇島城が文献に登場するのは「後法興院日記」明応八年(1499)九月、細川政元の軍勢によって槇島館が落城したと記録があるのが初見である。この時槇島氏は畠山氏の内訌で畠山尚順を支持し、義豊・義英を支持する細川政元と対立したことによって槇島氏は細川政元に攻められた。翌年八月には細川政元が入館し、以後は細川政元の持城となる。
文亀元年(1501)六月には足利義澄を招いて金春太夫の猿楽を催している。また、この頃、東寺に対して槇島城に使用する竹・縄・人夫などの提供が催促されていることから、その頃に城郭として改修されたと考慮される。義澄は同二年、三年に当城に招かれている。
永正四年(1507)に赤沢新兵衛、内堀次郎左衛門尉が真木島に着陣していることが「多聞院日記」に記されている。
元亀二年(1571)には、信長に反した松永久秀が真木島之城を攻めたことが「言継卿記」に記されている。 元亀四年(1573)七月三日に足利義昭は織田信長に反し、二条御所に三淵藤英に守らせ、義昭自身は奉公衆の真木島昭光を頼り槇島城に籠城した。信長は十二日に二条御所の三淵藤英が降伏し伏見城へ去り、十六日は南下し、五ヶ庄の柳山陣所に布陣した。十八日に槇島城を攻撃し、義昭は息子の義尋を人質に差し出し降伏し、枇杷庄へ退去した。
戦後は細川昭元が城主となった。
文禄三年(1594)に豊臣秀吉は伏見城の築城・宇治川堤防建築の工事のため槇島城を廃城とし、その伏見城・宇治川の堤防の建材として利用した。
参考文献
宇治市 『宇治市史2』 1986
角川日本地名大辞典編纂委員会 『角川日本地名大辞典26 京都府 上』 角川書店 1982
京都府教育委員会 『京都府中世城館跡調査報告書3』 2014
柴田實・高取正男 『日本歴史地名大系26 京都府の地名』 平凡社 1981